モリブロ

ここ最近はよく悩んでいる。

映画見たい

 椅子に座るとき、お尻を座面に着け、背筋を伸ばして目線を前に、肩甲骨を寄せて肩を落とし顎を引く。周りはみんなそのように見える。普通そうだと思うし、私もそうだと思っていた。卒業アルバムのために撮られた写真に写っている私は、その想像とかけ離れた姿で教室の硬い椅子に座っていた、というより、寝そべっていた。座面についているのはお尻ではなく腰、背中と言っても差し支えなく、丸まった大きい背中と前に出た首、上がった顎と曲がった首。それはとても醜く感じられたのだけれど、それは私が私を全く客観視できていないことを意味していたから、私はこれまでなにか大変なことをしでかしてきたのではないかという恐怖に背筋が凍った。

 あれから何年経ったのかよくわからないけど、もう自分に期待しないことにしている。というか、客観視なんてできないのだから、できるだけ自分を低く見積もって査定して、それで多めにおつりが来たらラッキーというか、そう、ブックオフに本を売るときに期待なんてしちゃいけないわけで。まあもともと、そんな順風満帆にほくほくと幸せを享受していい人間でもないというか、そんな気もする。

 私は本当にそんな不幸の星のもとに生まれた少年だったのだろうか。私の親は私に愛情を注いでくれたのだろうか。私は自尊心を保つのに十分なご褒美と教育を受けたのだろうか。私は絵を描くのが好きだった気もするし、身体を動かすのが好きだった気がするし、ゲームをするのが好きだった気がするし、でも、そのどれをとってもあまり褒められることはなかったはずだった。姉も例外じゃなく、そういえばあの人は子供だからと言って人を見境なくほめるようなタイプじゃない。でも、それが何だっていうんだ。

 しかしながら、私にいま子供という存在がいようものなら、私は無下に彼を誉めることはない。大人と対等に扱うのだろうし、それは評価という点でも揺るがない。私の持てなかった、磨けなかった才能というものをお前に開花されてどうしようか。あの人もきっとそうだったのかもしれない。

 まあそれにしても、私は硬いスツールにしか座ったことがない気がする。小学生の時はオーソドックスな勉強机にあこがれていた。組み合わせデスク、だとか、鍵のついた引き出しだとか、机の上にある本棚だとか、ああ、そういう皆が共有している少しのわくわくが私には足りなかった。ランドセルも、オーソドックスなものが欲しかった。交通安全のために配布されるマスタード色のランドセルカバーは、私の特殊なランドセルに張り付けることはできなかったし、なぜ私はその楽しみを享受できなかったのだろう。

 まあでも、いいんです。やわらかい椅子は好きじゃない、というか、好きになるように育ってないから今は別に困ってない。でもね、そう、最近は次の新居に移るタイミングでふわふわのリクライニングソファを買おうと思っているんです。一緒に座る人なんていないんですけど、3人掛けの、真ん中のシートを倒して飲み物が置けて、iPhoneの充電ケーブルを挿すUSBポートがついてるやつ。これを友達に言うと、いや、どうやらこれはあまり人気商品ではないらしい。これほど私には魅力的に見えたのだけれど、本当に世の中理解できないことは多い。高齢者の購入が多いらしい。

 硬い椅子なんてつまらないでしょう。私が硬い椅子を選んだのは眠くならないし、勉強しやすいし、立ち上がりやすいし、ね、そんなのはつまらないでしょう。以前、私は映画が嫌いだという話をしたけれど、本当はそんなことないんです。ただ、身体にストレスを感じることなくディスプレイで映画を見る経験をあまり積んでなかったんじゃないか。だから、そう、さっきも言ったけど、リクライニングソファを買うんです。あとついでにいい匂いの柔軟剤も買う。私の家は無臭の柔軟剤を使ってきてそれが良いと思ってたけど、ごめんなさい、本当は友達の家のいい匂いのお洋服にあこがれていました。