モリブロ

ここ最近はよく悩んでいる。

シュノーケリング

 「まあ、こんな仕事成功しようがやらかそうがどうでもいいというか、というよりも、俺にできることはもうすでにやっているわけで、逆にできないことはやっていないから、じゃあ後の結果を作用するのは、俺の内側にはないのだから…。そう、だから、仕事に限らず悲しいことはいくらでもあるかもしれないけど、いつまでも尾を引くようなことなんて人生にあるのか?」

 坂本は同期から嫌われている。露骨に嫌われている。仕事の最中はもちろん、休憩中も勤務時間外も嫌われている。それでも坂本はしつこく相手を誘うから、干そうと思ってもなかなか干せない。そして今私は坂本に捕まったところだった。

 このホテルはキーレスで、6桁のパスコードを打ち込んで入室するタイプだった。ホテル生活も4日目に突入するとパスコードを空で打ち込めるようになっていて、ああ、そんなことがきっかけでこの男を部屋にいれるとは思わなかったし、ここまで面倒な話をされるとも思わなかった。

 傷心に傷心が重なって、どんな音楽を聴いても映画を観ても、さて、なにか彼女のことを思い出してしまい、もう永遠に手の内にいることはないのだろうと思うと、過去に戻ってなにか選択をやり直したくて、どうしようもないことに打ちひしがれて泣いてしまうのだから、やはり何も考えないように味覚・嗅覚・聴覚…に刺激を与えてしまいたいのだけれど、それでも私の中の何かが記憶を引き出して私の眼前まで押し付けてくる。じゃあやはりどうしようもないのかもしれない。

 「そう、じゃあ、君は諦めているということかな。君の人生で本当に欲しいものが目の前に現れたとして、君はそれを指をくわえてみているのかい。そのあと、別の誰かがそれを奪い取っていったとして、君は悔しくない、どうしようもないことだったと割り切れると、そういっているのか?」

 自分の煙草の匂いは許せるのに、他人の煙草の匂いが許せない。会社に喫煙室を取ってもらって、やっぱりそう思った。もう4日目にもなるのだから、きっと今染みついている匂いの何割かは自分の匂いなのだろうとも思うのだが、やはりそれに不快に思わずにはいられない。彼をソファに誘導するやいなや、清掃で取り換えられたぴかぴかの灰皿を引っ張り、煙草に火をつけ始めた。一緒に喫煙すると妙に仲がよさそうに見えるから、私は今朝購入したミネラルウォーターをバッグから取り出し、一口飲んでテーブルに置いた。

 彼女と別れたのは先月のことだった。いや、もう7月なのだから、さらに先々月のことだ。別れてしまった。これ以上にないくらいに好きだったのに、いや、いまでも。振られてしまった。正直言って自分に責任がない。これは両者の共通見解で、でも、だからこそ今の今まで引きずっているのかもしれない。

「本当に欲しいもの…なんて軽く言うようだけれど、お前の言う本当に欲しいものというのは、果たして”本当に欲しいもの”なのか?正直なところ、世間でほしいと思われているものは俺にとって、過剰なんだ。バルミューダのオーブントースターも、外出中に起動できるエアコンも、ベンツのゲレンデも、オートロック付きのセキュリティも、そんなものが本当に欲しいもの、もっと言えば、必要なものなのか?いや、話がそれてきているかもしれない。お前のいう欲しいものは、身の丈にあっていたのかと聞いているんだ。お前にとってその女は喉から手が出るほど欲しかった女なのかもしれないが、女にとってはどうだったんだ?ものならまだしも、人を所有するという考え、それってどうなんだ?」

 iPhoneの充電が少なかったことを思い出して、テーブルから飛び出ている充電ケーブルを掴もうとしたがやめた。彼が2本目の煙草に火をつけようとして、いよいよ私も吸いたくなり、胸ポケットから取り出して煙草を吸い始めた。彼のマッチがテーブルに投げられていたので、それを擦って火をつけると、やけに吸い始めが旨く感じられた。部屋は清掃が行き届いていて綺麗に見えるが、さて、アルバイトがそう丹念に仕事をするわけでもあるまい、と思い手癖でシーツの裏を確認すると、やはりマットレスはある程度汚かった。汗染みの黄色が点々と、やけに目立つ。

 私と付き合っている間に好きな男ができるというのはいったいどういうことだろう。彼女とは私の家で会うことが多かった。その時も、その男のことを考えていたのか。二人で作ったご飯を共有しているときにも、その男のことを考えている時間があったのだろうか。幸い私と付き合っている間には体の関係も何もなかったそうだが、じゃあ、なんだって私を捨てて彼を渇望するエネルギーが生まれたのだろう。

「身の丈に合っている…?うるさいな。君、すかしてんなよ。身の丈にあっているか合っていないか、それが手に入りうるのか無理なのか、そんなことに関係なく、私の本能が根源的に欲しているんだ。脳みそであれこれ考える前に、飯を食う前に、着替えをすます最中でさえそれにとらわれる感覚がきっとお前には欠如している。一人の人間に頭を支配される。そのことしか考えられなくなって何も手につかない。これを治めるのは、そいつと一緒にいることしかないってことは、何も理屈をこねて考えることじゃない。私の本能がそう言っているし、それは人間の汚い部分とは切り離されているんだよ。」

 愛と性欲は、やはり切り離されて考えられなければいけないと、10代の時に気が付いた。愛の定義さえ知らないが、定義をしらなくても精製はできた。気に入った相手に対して、性欲の関わる要素を気化させて、その残留物こそが愛だった。そして、彼女にはその資質が十分に備わっていて、私とも気があうと思っていたのに、どうしてだろう。

「そうか。まあ、いいんだ別に。自分と同じ人ばかりでないという内容の話は別れの挨拶と併せて何万回と耳にぶち込まれたんだ。でもね、俺は異物をわからないから触りに行きたいんだ。都合のいいように本能とか言いやがる。その本能だとか価値観ってやつは、一週間インドにいくだけで、睡眠の時間を変えるだけで、接種する栄養素の割合を少し変えるだけで変わってしまう代物なのに、それを最後の盾として論じてくるメンタルには本当に参るね。」

 硬水のミネラルウォーターは正直言って口に合わないから、なかなか減らない。軟水だと一気に飲んでしまうから、そうすると硬水のほうが都合がいい。海外製の丸みを帯びたペットボトルのデザインに、大粒の水滴がぎしぎしと張り付いている。今日は湿度も高く気温も高い。エアコンをつけていなければ確かにこう結露するものだが、いったいどこから、これほどの水が眼に見えるほど集まってくるのだろう。水滴をフェイスタオルでふき取り、ボトルを手に取る。それでもなお水滴がしたたりスラックスの上に落ちた。一段階濃い黒が布を彩って、テーブルには水の輪っかができている。それらを綺麗にふき取っても、やはりふき取れている気がしない。

 人生は思い通りにいかない。負け組の言うことだと思っていた。でも、人間が相手である以上、イレギュラーが発生するほうが自然だった。そう思えるのに、なぜ私は考えても意味のないことを考えて頭を悩ませているのだろう。最近気が付いた。私は自分の頭を悩ませたいがために、なにか不都合なことを考えているきがする。

 「わかった。わかったよ。じゃあ、お前は諦観して生きているから、俺のように執着が激しい人間の気持ちがわからないってことだよ。もちろん、私の言う本能というものの正体は私の腑抜けた理性かもしれないし、怠惰かもしれない。たまたま飲み会にいた女とするライトなセックスも、私に気があるとわかっている女とするインスタントなセックスも、たしかに本能に似た理性によって動いているよ。でもね、私はひどくこれを気に入っているんだ。それが、私にはもうどうしようもないんだ。お前の諦観はもしかしたら正しい生き方なのかもしれないけれど、私にはどうしようもないんだ。」

 どうしようもないことをどうしようもないと気づけるのは、私が何歳になったときなのだろう。40なのか、50なのか…。おとなしい老人は、ああ見えて果てしない自問を繰り返しているのだろうか。永遠に私はおろかなのだろうか。彼女に会いたくてしょうがない。こんな生き方、馬鹿みたいだし、女みたいだ。でも、これが私の過失だとしても、やめられないことをやめられないのは、悪なのだろうか?

 彼が半分くらい残っている煙草をねじ消した。

 「俺が諦観に徹した反物質主義者みたいに見えているのかもしれないが、別に俺はそうじゃないし、なんだ。執着と諦観は、決して反対では無いし、混ざり合っていてもいいわけで、現にお前は極端かもしれないがそうやって生きているじゃないか。どいつもこいつも、諦観するべきことに執着を忘れられず、諦観するべきことに執着を忘れられない。そうやって生きることが、もがいて生きていられるということなのかもしれない。そう、俺はね、もう生きている理由さえもわからなくなってしまっているから、きっとお前の生き方は悪くないんだと思う。」

 「そう、お前と私は異なる人間なようだけど、やはり行き詰まる先は一緒なのかもしれない。頑張ってほしいとはいえないのだが、まあ、心地よく過ごしてほしいから、今日はもう自室に帰ってくれ。」

 空調の音しか聞こえない自室。考えても、言葉を発しても壁を跳ね返って並べて自分に跳ね返ってくると、痛みを通り越して虚しさを感じる。今日は19時から同僚と飲みに行く。息詰まる前に、シュノーケルみたいに水面下で息をする。それがやはり、生きているということなのかもしれない。