モリブロ

ここ最近はよく悩んでいる。

本を読むわけ

  趣味は?と聞かれたら、とりあえず読書と答えることにはしています。相手は大抵読書をしないので、次の会話に遷移するか、浅めの深堀、いま名付けるなら、浅堀が始まります。

 「俺全然読書しないんだけどさ~~~、なんかおすすめとかある???」

 この質問、人生で50回くらいは喰らった気がします。こういう人の要望に応える答えは、本屋行って平積みされている本を読むか、本屋大賞を取った本を読むか、東野圭吾伊坂幸太郎読む、に尽きるのです。しかしながらこれらの答えを伝えると彼らは満足していなさそうな顔になります。

 「いや、そういうメインストリームって感じでもいいんだけど、お前が読んで、知る人ぞ知るっていう感じのを聞きたいっていうか。」

 「文字ってあんまり読んでいられないから、ずっと集中しちゃうくらい面白いやつがいいんだけど」

 と続いたりするわけですが、本屋大賞取った作品なんて僕が読んでも誰が読んでも面白いに決まっているのでさっさと読めばいいと思うんですよ。それでもなお文字を目で追っていられないのであればきっと読書をしようという気概があなたの中に一切ないんですよ。

 いや、しかし、そんなことで私がキレているのもおかしな話で。そもそも私が本屋大賞のこの本面白かったよと勧めれば相手が読む読まないに限らず話は丸く収まるわけで、というかそもそも読書とかいう絶妙に話の広がらなさそうな趣味を持ってくる時点でお前にキレる資格はないぞと。私が悪いんですよこれ。

 でもね、別に本屋大賞の作品を意識的に読んだことも無ければ、そもそも面白くねえよって言われるような本も読んでいて、それでいてこれを超えるような趣味っていうとほんとにニッチな話広がらないなんて次元じゃない趣味しかないんです。

 

 私が苛立つのは私と彼らとでは小説を読む目的が違うからです。小説を読む目的って何でしょう。

①読書をすることで賢くなりたい(イメージ、語彙力)

②読書を通じて人生の深いテーマについて考えたい

③人生では経験しきれない他人の人生に触れて疑似体験をしたい

④映画やドラマ、漫画といったようなストーリーを楽しみたい

 ④に関して言えば、じゃあなんで映画やドラマ、漫画を楽しむのか、というところで結局目的に繋がりそうなところではありますが、私が今ざっと考えた想定できる目的はこんなところです。

 普段読書をしない人が考える目的は①,④あたりにあると思ってます。読書をすることで賢くなるというのはそこそこ暴論で、それこそ1冊を1度読んだからと言って短期的に頭が良くなるというのは考えにくいと思っています。じゃあ長期的には頭が良くなるのか、と言われるとまた微妙で、確かに語彙力なんかは身につくかもしれませんが、身についた語彙力を使うかどうかといわれると、文語体でしか使用されない語彙、口語体であろうと通じるコミュニティにいるかどうか、みたいな要因に阻まれて結局大して頭なんてよくならないんじゃないかなと思います。ストーリーを楽しむなら、読書ってかなり時間対感動のコストパフォーマンスが悪いので、これもやっぱり読まない人の目的に該当する気がします。例外はあります。

 ②なんかは、私の苦手とするタイプの人間ですが、割とこういう目的で読書する方は多いんじゃないかなと思います。ただし、読書をできない人の目的が②であるケースもそれなりに多いと思っていて、小説すべてが人生において重要なテーマを孕んでいるとは言えないと思うからです。そういう人は小説じゃなくて哲学書とかのほうが性に合うと思うし、小説特有のストーリーというものをいちいち哲学概念的なものに昇華させる必要があり、読まなくなるのかなと思います。私は高校生のころなんかは小説の背後にある隠された重要なテーマのほうに頭が働きすぎて純粋に小説を読むことを楽しめなかった気がします。

 ③は、割と私はこれに近い気がします。私はこの先の人生で結婚できるかもわかりませんし、その後不倫するかもわかりませんし、クリエイティブな仕事ができるかもわかりませんし、道端で銃を拾う事なんてないでしょうし、暴力的な父親を持っているわけでもないですし、そもそも女性に性を変えることもそこそこハードルが高いでしょうし、そういった意味で言えば人生の疑似体験ができるというのはなるほど確かに小説を読む意義ではあるのかもしれません。特に小説ではビジュアルで訴えかけてくる登場人物の特徴というものは基本的にないので、よほど共感できない限りは主人公の思いに共感できることはままあります。ですが、正確に言えば私はこの目的で小説を読んでいませんし、このように人生の疑似体験として使うツールとして小説を楽しむのはなんとなく嫌だなと思います。もしも小説を疑似体験として使うのであれば、小説に書いてあることは全くのフィクション、不可能な事象であり、空想の世界を楽しむためのキットであるわけです。それは私の好きな小説の性質と少し異なります。もちろん、そういうものも有って然るべきなのかもしれません。

 私が本を読むのは、他者を理解したいから、だと思います。だと思います、というのは、正直なところ私がなぜ本を読んでいるのかよくわからないのです。この1年くらい小説を読む生活をしていました。最初は暇つぶしで、でもだんだん、別に暇じゃないのにわざわざ時間を作ってまで小説を読むようになった理由を、私は明確に説明することができないまま今を迎えています。そこで、ちょっとだけ理由を考えたのが他者理解ということです。

 他者を理解するにはそこそこ時間がいると思います。特に私は人と話すのが得意でもなければ距離を詰めるのも下手なので、現実で深く仲良くなる人っていうのは1年に一人いるかいないかとかそんな程度だと思っています。小説の人物と仲良くなることはありませんが、そこにはいろいろ書かれています。失敗する人も、成功する人も、強者も、弱者も、自分に似た人も、全く似ていない人も描かれています。私はそれらの人を自分に憑依させるのではなく、彼らを咀嚼し飲み込み、愉悦を感じています。そして、それは文章だからできることだとも思っています。映像や絵は私にとって、飲み込むことができないと思います。絵を見るとき、いかにして脳に反芻させますか、映像を見るとき、いかにして脳に反芻させますか。網膜を通じて脳に入ってきた映像は、鮮明に残りはせず次の瞬間には形、色使いさえも忘れてしまいます。しかし、文章はすくなくとも次の一瞬までは追うことができるし、フレーズ程度であれば脳みそにストックしておくことができます。また、文章は必ず読む必要があります。読み、理解せねば次に進めない。大きな食べ物を口に含んで、噛まずに食道を通りますでしょうか。

 もちろんストーリーが面白いなとも思ったりするのですが、正直私はストーリー展開とかあんまり気にしません。ありきたりでなければなんでもいいと思っているし、咀嚼し理解する要素にあふれていればあふれているほど面白いとも思います。これは①~④と重複して持つ目的である可能性はありますが、独立していると思っています。

 そう、だから、そんな楽しみ方をしているので、別に本屋大賞の本を読もうとも思わないわけですが、きっと読書をしようと思っている人は私のような目的意識をもって読書をしないと思うのです。だから、おすすめなんて聞かれても困ります。さらに言えば、別にこの目的意識は持とうと思って意識的に持ったものでもないわけで、じゃあそういう風にお前がおすすめされた本を読めば、面白いと思えるんだな、とか言われても困るわけです。暇つぶしで、登場人物に興味を持って、ある時は作家に興味を持ってだらだらと読み続けた末に生まれた副産物的目的を他人に強いようと思えるほど、これが正しいかもわからないですし、本当によくわからないのです。