モリブロ

ここ最近はよく悩んでいる。

個性

 何者かになりたい、何かアイデンティティが欲しい。みたいなことを高校生の時に強く思っていたような気がします。今もきっと思っていますが、そこまで面倒なことをしなくてもいいやと意識的に考えています。

 当時の私は、映画マニアになることが個性的でいて、面白い人間に自分を育むと考えて、ゲオに足繁く通って4作くらい借りて、1週間後にプレイヤーに入れることもなかったそれらを返却ボックスに突っ込んでは自分のことが嫌いになっていました。なんなら1週間後に返却するという行為が難しくて、それすらできない自分が逆に愛おしいとも思っていました。

 個性、個性、って本当にうるさい。なくてもいいじゃないですか、個性なんて。私はハチャメチャに排他的な人間ですが、個性が大事とかいう奴は私以上に排他的で残酷で、誰にでも個性はあるなんていうやつ、こいつは、排他的を通り越して差別主義者、プロパガンダに簡単に煽られて戦争を先導しては在日外国人の方々へのヘイトスピーチを欠かさない、そんなやつ。は?

 個性がなきゃいけないだとか、誰にでも個性があるだとか、そもそもクリシェを垂れ流して個性のかけらも無い。個性がなくても問題ないし、個性が無くて別に全員凡庸だって認めていれば、高校生の私は映画に苛まれることはなかったわけです。そもそも、そんなファッションとしての映画になんの価値があるんですか。個性を出すための服って、それは個性的なんですか。

 でも、きっと個性っていうものはあると思うのです。ヒトの内面に100のパラメータがあって、それぞれ2パターンあれば2の100乗種の人間がいて当然なわけで、それくらいの個性やばらつきなんてのはあると思います。でも、私がそのヒトと接して、個性として認識できる部分なんて微々たるものだと思います。他人は見せたいものを意識的に私に見せてくるし、見せたくないものを無意識的に見せてくる。そうやって私に見えるものは、個性の1部に過ぎないし、見えないものは永遠に見えることはないんです。そうすると、別に人なんて大した個性がないように見えるのが当たり前じゃないですか。人と接してて個性的だと思うのであれば、その人間がコミュニティに溶け込むことを諦めているか、隠すのがよっぽど下手くそなだけ。

 だから、お前が思う個性って、ただのパフォーマンス、そんで、そのパフォーマンスを見て「個性的!個性的!」と半狂乱に騒いでいる精神異常者。人の全体を見える部分だけで判断してそれをポジティブな方向に考えるの、やめろよ。うぜえんだよ。