モリブロ

ここ最近はよく悩んでいる。

犬と仙人掌

 金や手間も掛けずに子どもが立派に育つことを、世間では”親孝行”と言うらしかった。親戚や近所は僕のことをそうやって持て囃したけど、その時に兄の話が一切でないことに違和感を感じたことを覚えている。兄は、今は何もしていないから。もしも彼らが兄に触れたら、僕はどうするべきだったのだろう。怒り散らすべきだったのか、同調し彼らサイドから侮蔑を楽しむことだったのか。それよりか、僕が兄の話題について触れてみるべきだっただろうか。彼の弁解をして、今はこういう風に公正していて…、という風に。結局、多少の謝辞の言葉と気の利いた雑談をするだけで、いつも終わってしまう。

 僕が所謂親孝行であるということは結局今の今までピンとくることはなかった。どれだけ低コストで優秀に育ったとしても、それが本当に僕のためになったのだろうか。親に褒められたくて、他人に褒められたくて、媚を売るしかなかっただけだったじゃないか。ああ、出来損ないかどうかもわからないクソガキに金をかけるのは馬鹿らしいって、幼い僕でさえわかっていた。金を注がずに芽こそ出たものの、やっと伸びてきた其れが浅黒く枯れたとてそれがなんだろう。もし花を咲かせたらラッキーという程度で、それがなんだろう。投資が少なければ結果がどう転ぼうがみじめな思いをせずに済む。神様か、それに相当する何かに媚びて、然るべき行動をして、あとは祈る。その結果、今の僕がいる。実際、今僕がここにいることは、誰の差し金なのかわかったもんじゃないし、本当に僕はここにいるのか心配になることさえある。

 兄に妬まれる時、僕はどうしようもない。僕のこれは才能というには貧弱で、努力というには矮小だ。棒を地面に突き立てて手を放すと、東西南北のどれかに寄ってぱたりと倒れる。朝家を出て最初の信号が赤か青か。そんな些細な賽の出目によってすべてが決まるのだから、僕も君もさほど変わりはしない。僕は同情に似た、蔑みとも違う、一種の慈愛の心を持たなければ君と接することができない。君の心中を察するに、僕は、僕が僕じゃないケースを逐一考えて行動しなければいけない気がするし、そもそもこんなに幸せを感じてはいけないような気がしてくる。

 

 

 最後に兄と会ったのはたしか叔母さんのお葬式の時だ。少しよれた喪服とワイシャツ、安っぽい革靴に包まれた兄は惨めで、犬のようだった。結局兄と言葉を交わすことはなかった。僕は兄にどう接すればいいかわからなかったし、兄の思っていることはなんとなくわかる気もした。

 ——お前は本当はもっと低俗に生きていなければいけない。コスパチルドレンでよかったね。運だけの実力無しが。努力と成果の不均衡に胡座をかいて、どうしてのうのうと生きていられるのか、その無神経さには腹が立つね。お前みたいに大衆が作り上げてきた輪を乱すやつは生きている価値がないんだよ。もっと言えば、別に特出した才能があるわけでもない。だから誰もお前になんか期待しないんだ。期待されないから、ちょっとの成果でも喜ばれるというだけ。俺はな、多大な期待を背負わされて、背負わされて、今ここにいるんだ。壊れてしまったのは、お前のせいじゃあないけれど、お前と痛みを分かち合う権利が俺にはある気がしてならない。死ねとは言わない。せめて、俺がスカッとするまで、落ちるところまで落ちていってくれないか。

 外から僕を糾弾する声は一切聞こえてこない。でも確実に誰かが僕の中に居座っていて、犬のように吠えることしかしない。僕はこの犬に支配されているような、同情しているような、逆に犬を軽蔑しているような気がした。犬に苛まれていたから、どうすればいいか教えてほしかった。

 ——お前は誰に向かって、何に向かって自分の窮状を訴えているんだ。お前の言う世間や現実は、お前のイメージだろう。他人を真に思うことを放棄し、想像の中の敵と戦っている。こうして自分を責めることばかり考えているかと思えば、現実で飄々と生きている。強者と弱者のダブルスタンダードでいることは、お前もお前の外も救わない。いい加減、わかっているんだろ、自分がどうすればいいかなんて。他人の惨めさを想像しなくていい次元まで堕ちていけばいいんだよ。弱者に傾倒すれば、弱者を思いやらなくていいんだ。そこは、生きるだけで精一杯であるだけでいいんだから。そのコストパフォーマンス性能はお前に似合わないんだから、捨てて、楽になればいい。楽だ。

 心の犬を飼いならしながらも、日々は続いていく。特段日常に問題は起こらないのが、僕の器用さと、コスパの高さを表している気がして、内面だけが荒んでいく。

 

 

 さっきふと、部屋が汚いことに気が付いた。モノが多い以上にゴミが多い。悩ましい日々と目まぐるしい日常の中で、部屋が荒れていた。きっと、これらを片付ければ僕の気持ちも晴れる気がした。そう、どこかで聞いた気がした。ごみをまとめて、床を掃く。掃除をしても燃えるごみの曜日まではまだ日にちがあるため、ごみは幾日かそこに滞在しなければならない。

 ふと机の横を見ると、枯れた仙人掌がある。買った直後は深緑の皮をかぶっていて、四方に飛びだす棘が生き生きとしていた。柱仙人掌は、無数の張りではなく、柱の角にのみ数個針が生えていて、その個性的な面が気に入った。生活をしていて少し邪魔に思える程度には大きい其れ。部屋の電気と少量の水だけで育つことができるという特徴を知り、ホームセンターで買った。それにも拘わらず、僕は怠惰で水を与えることを放棄した。そうすると、3,4週間は生き生きとして、というより、生きている感じではなくて、水不足のことなど我関せず、といった様子で仙人掌は生きていた。

 そこからは興味が失せていたが、あれから3か月程経っている気がする。今はところどころ白んでいて、身は細い。みずみずしい果肉がぎちぎちと詰まっていそうで、触ってみると確かに弾力があったその身体は、すっかり痩せこけている。以前の面影があるのは、ところどころ白んでいるが、緑の皮と、針。僕はそれを机の上のカッターで切ってみた。乾いた皮と、弱弱しい棘。中身は、引くほどがらんどうだった。少しの果肉でも詰まっているかと思ったが、文字通りなにもなく、骨組みだけの仙人掌。少しざらついた其れと、マットで潤いの足りていない乾いた質感。

 水が足りなくて枯れていった其れは、惨めで怖いと思ったとき、頭の中の犬が急に吠え出した。人の言葉をしゃべっていると思うが、聴き取れないから、やっぱり吠えているきがする。この犬のようになってはいけないし、でも、犬にどうすればいいか教えを請いたかった。なにか、細かなことに集中しなければと思った。犬のことを忘れて、目の前の何かに集中しなければ、僕はきっとおかしくなってしまう。どうすればいいのか、僕に教えてほしい。どうすれば、僕が悩まずに生きていられるのか、どうすれば犬に吠えられないのか、どうすれば仙人掌を枯らさずに済むのか———。

 

 

 

 その日は結局、仙人掌を細かく刻んで、炒飯を作った。ぱりぱりとした触感の仙人掌炒飯は、大胆な食材と慎重な味付けにより、奇妙なハーモニーを奏でていて我ながら悪くなかったと思う。犬もおいしそうに食べていて、それを見て飲んだウイスキーと、食後の煙草は格別だった。犬にこれだけ悩まされていたのが、あほらしい。飼いならしてみれば可愛いものだった。そろそろ、食後に合わせて呼んだデリヘル嬢が来る頃だ。デリヘル嬢には、説教が効く。昨日までの憂鬱が嘘みたいに晴れているのだから、ああ、人生は素晴らしい。