モリブロ

ここ最近はよく悩んでいる。

"死にたくなったら電話して"とは何なのか

 "死にたくなったら電話して"を4回くらい読んでる。

 きっと人には誰しも暗い部分やひねくれた部分がある。自分が集団の中心で仕切っている側だと心地よく感じることも、端にいれば粗を探してしまうし、周りは当然のようにできることを自分ができなければ、夜は心穏やかに眠ることができない。きっと誰しも経験がある。自分が孤独なとき、マスに持つ憧れや嫉妬や嫌悪がある。

 これまで生きてきてあまりにそんな経験が多いものだから、人生の大半を孤独だと思い込んで生きていたから、いつしか自分がどんな状態であろうと、私は恒常的にマスへの敵意を持っている。なにか心苦しいような文面ですが、このようなスタンスを取るのは、とても気持ち良いことです。周りに気を遣う必要もないし、考えたいことだけ考えれば良いし、自分に責任ものしかかってきません。いつでもいいわけができる。

 でも、そんなことが、果たして健全な状態といえるでしょうか。他を排除し、環境の責任にして、自分の成果を担保しない状態が、本当に生きていて正しいのでしょうか。

 ここでいう健全、正しいというキーワードが、私にはよくわかっていません。でも、なんとか私はマスに傾倒しようと今、頑張っています。書き方が悪いかもしれません。周りと調和し、責任を持った生き方を試みています。なんだかそれがとても懐かしい気がするし、それこそが生命力の本質である気がするのです。だからどうということはありませんが。

no job

 転職はしていないのだけれど、最近異動がでて、倉庫勤務となった。今は研修期間なので、ひたすら作業をこなしている。手を動かすだけの作業で考えることがほとんどないため、苦痛な人は苦痛らしいけど、私はなんとかやっていけている。というより、考えなくていい作業を延々と続けていることに、感謝すらしている。こうやって休日になると、どうしても考えてしまう。なんで叔父が死んでしまったのか、考えては暗くなり、想っては泣き、そうして1日が過ぎ去っていく。こんな風に思いつめてしまうということは、結局暇だということなんだろう。大学4年の時、研究するのが嫌になって、ずーっと家にこもっていた時期がある。その時に小説を読んだり、絵を描いたりして過ごしていたのだけれど、どれもこれも自分に義務感を感じさせない。自由気ままに生きるということが私にはとても苦痛だった。そうじゃない人もいるのかもしれないけど、私にはとても苦痛で、やらなければいけないことがない状態というのは、どうにもやりきれなかった。今もそう、仕事の無い日が苦痛でしょうがない。こうやってキーボードをたたいている今も苦しくてしょうがない。本当にどうしようもない。どうしようもないという言葉通り、本当にどうもしようがない。しかし、こんなことは私に限った話ではないのだろう。私以外の人間も、きっと同じように苦しみながら生きている。あるいは、私よりも苦しみながら生きている。私の母親も、姉も、父も、血縁外の人も、誰もかれも地獄を抱えて生きている。仕事がなくなって自分の地獄と直面しなければならないその時、前身の毛穴が開き、悪寒を感じる。けだるさが体中に充満し、食欲がわかない。皆が同じように感じるそんな最悪の時間を今は過ごしていて、きっとこれはいつか薄まる。

ソリッド・ステート・ドライブ

たまに、何だったんだろうここまでの人生は、と思う。たくさん映画を観られたかもしれないし、たくさん読書できたかもしれないし、スポーツに打ち込んで自信をつけられたかもしれないし、意味もなく筋トレしてマッチョになれたかもしれない時間時間に、俺は何をしていたんだろう。

遺品整理をしていると、3TBのHDDにたくさんドラマや邦画が入っているのを見つけた。暇だったんだろうな、とも思うけども、これだけエンタメに触れられたならそれはそれで良かったんじゃないかとも思う。留学に行っていた頃の写真はきっと自分も気に入っていたんだろうし、AIR MAILのやりとりが全て残っていた。ぼやぼや生きているように見えていたあの人は、人生の面白みを吸い尽くして死んでいったのではないか。

私の輝かしい時代はいつになるのだろう。過去にあったのかもしれないし、これからくるのかもしれない。また純文学やオリエンテーリングに打ち込む日が来るのかもしれないし、音楽や仕事に熱が入るのかもしれない。あるいは、入らないまま、ぼやりと生きながらえるのかもしれない。あと何年間、人生を楽しめるのか指折り数えてみると、さして長くないことがなんとなくわかった。

リストカット

 永久機関は存在しない。理論上永遠に動き続けるパチンコ玉の運動エネルギーは、摩擦によって熱が生まれてやがて止まる。エネルギーの総量は変わらないから、熱エネルギーに変換できたと考えると損はしていないのだけど、それでもなにか失った気分になる。下呂で温泉の源泉が湧き出ているのを見たことがある、湘南に波打ち続ける海がある、いま、私はなにもないところからイライラが生成されている。お腹は空いていない、喉も乾いていないし、温度も湿度も快適そのものだ。赤ちゃんが泣いたとき、なすすべがなくなることがある、あの感じ。私の親は手立てがなければ放っておけばいいと言っていて、なるほどたしかに、と感じたけれど、私自身を放っておくのは、どうすればいいだろう。さっきまで10ほどのイライラが集まっていた。いまこの時も、次から次へとイライラが湧き出てくる。20にも30にも積み重なっていくのかと思えば、私の心が感じるところによれば、どうやら10から11になるような感覚が永遠に続いているみたいで、いっそ十分に大きな数字まで膨れ上がってくれれば、そのうち心がパンクして、自然治癒みたいにいつも通りに戻ってくれる気がするのに、ペンローズの階段みたいに、怒りと焦燥感の階段を永遠に登らされる。ふと目の前にあるランドリーボックスをけ飛ばすと、いい音を立てて壁にぶつかる。1,2入っていた私の下着は床に散らかり、これは爽快に感じたのだけれど、どうやら私のイライラとは別の機構で働いている感情だったため、意味を成さなかった。次にiPhoneを床にたたきつけた。クリアケースをしている私のiPhoneは弾み、いつも座っている座椅子の上に着地した。私の携帯電話が痛んで使えなくなってしまえば、我に返って冷静になるかとも思ったが、直後Yahoo!メールからの通知が耳に聞こえて、その気が失せた。だからと言って、ケースを外した状態で床にたたきつけることはしない。あくまで、壊れると思っていなかった、アクシデントのような形でなければ私自身を驚かすことはできない。ともしているうちに、なんだ、中学生のころにしたリストカットを思い出した。正直あの頃は、何にイライラしているでもなく、そう、それこそ大人へのアピールみたいなものだった気がする。だからと言って、見せびらかすようなことはしなかったのだけれど。会社用のカバンからペンケースを取り出して、カッターの刃を出す。キリキリなる音と、錆びた刃。そっと腕に刃をあてると、ひんやりとした感覚と、あと少しで何かが起こる、それを自分が知っているときの、今ここにいるという感覚をはっきりと自覚した。一度腕を降ろし、刃をさらに出すと、キリキリ、カチ、と刃がこれ以上でない限界に達した。次は刃が平らな面を腕に当てて、やはり冷たいことを確認した。冷たいカッターの刃と、熱を帯びた自分。そういえば今日は、まだシャワーに入っていない。これからのことは、そのあと考えることにした。

 「お前いつまでそんな感じなんだよ」

 私の息子のおじさんにあたる、つまり私の弟が、寝室で甥に向かって言っていた。息子はまだ3歳になったばかりだから、そのフレーズに込められた皮肉や含みを理解することなく無邪気に笑っていた。

 薄々感づいていたのだけれど、やはり私の息子は発達が遅いのかもしれない。だって3歳にもなるのにまだまともに会話した人は私を含めて誰一人としていないのだから、そうも思う。そうも思うのだろうけれど、いまだに誰もそれを口にしない。それを口にしてしまっては事実としてそれが決定付けられるような、なにか息子の可能性を閉ざしてしまうのではないかという不穏なガスが親族中に充満していた。

 息子の側に立つと惨めになる気がした。私が息子の側に立つ、ということはすなわち、それは息子を俯瞰してみることを意味する。小さな息子と私はほとんど一体で、側に立つという行為自体、一つの個体を成しているということの否定に変わりないのだ。

 しかしながら、いつになるのだろう、息子の側に立つのは。私だけは惨めに思ってはいけない。あなたが成長しようとしなかろうと、私は一人の人としてあなたを認識しているのだけれど、そうなると私は扉一枚隔てた弟にどのような態度を取ればいいのだろう。怒って然るべきか、はたまた蔑むべきか。これが何の感情か知らないけれど、弟が帰ったあと息子を抱いて、2,3滴涙が出た。そのあとにやるべきことも、泣いて誰かに慰めてもらうこともないのであれば、涙はこれ以上出なかった。

川04

 私も、隣にいるあなたも、不器用な気がした。決して見栄えのいい顔とも言えないし、人様の前に立てるプロポーションでもない。かといって違う生物かと言われるとそこまで大げさな話じゃない。もし宇宙人が地球に来て、私と吉澤亮が同じクリーチャーかと問われたのなら、ギリギリ同じ種で、それでいて実はそこまでの大差がないように思えると思う。カブトムシの雄雌の優劣が私にはわからないように、生を実感するようなスケールで見れば、そんなことは小さな差なのかもしれない。

 私たちは一人と一人ではなく、もう混ざり合っていた気がする。自分より自分が良く見える。私たちは自分の外見が気になるから、互いに粗が出ていないか定期的にチェックしあう。おしゃれを気にしすぎて浮いてないか、喋り方は早口すぎてオタクのように聞こえないか、相槌のバリエーションが一辺倒で相手につまらないことがさとられていないか、ぼーっとしているでも顔に覇気があるか。自分で自分を見るという変な色眼鏡がかかっていない分、鏡よりも自分を映し出すような気がしていた。気の使い方も、人見知りなことも妬み嫉みが多いことも、似ていると思ったから、なおさらだった。

 私は臆病だし、あなたも臆病だと思う。しかも、やっぱりそれは惨めだと思う。自分で自分をわからないから、もう一人の自分を作っているだけなんだと思う。互いを尊重するでもなく、私はどこにも異常がないということで安心するというただそれだけで、自分が勘違いをしていないのか、恥ずかしい目にあっていないのか、俗にいう痛いことをしていないのか、それらを確認してはそれに安堵するということは、目の前にいる人を度外視していることと同じなんじゃないのかと思う。

 でもやっぱり怖い。何か間違っていないか、自分がやっていることが正しいことなのか一切の見当がつかない。誰かにとってはありがたく心地よいことでも、誰かにとっては不愉快だったりする。自分と全く違う誰かが私を肯定してくれることを常々感じては、それでは相手のいる意味など無いと全く逆の返答が底のほうから反響してくるのを聞いて、ぼーっと穴の中を見ていると今は夕方。最近は徐々に気温も下がっている。誰も私には興味ないようなそぶりでバス停を過ぎるから、いたずらしたくもなるけれど、荒んだ頭の中からは思考が出ていこうとしない。Suicaのチャージをして、東扇島からくる川04系統を待っている。なかなか来ない。乗ってしまえば、足るに足らないこととも思う。