モリブロ

ここ最近はよく悩んでいる。

変性

 DVなんて、テレビや異常者の話なんだろうと思っていて、自分が考えることではないと思っていた。でも、なんでこうなっているんだろう。息が上がっているし感情の高ぶりが止まる感じがしない。自分の感覚が頭に集中していてかみ合わせの悪い歯に力がかかっていることがわかる。目の前には泣いてうずくまっている女がいるけど、さっき多少打って、でも別に体には問題ない、はず。こんな状況異常だということはわかっているけど、それが当たり前の状況になっていて、それもやっぱりおかしいと思った。昔は勉強が得意でテストでは高得点が当たり前だったのに、大学生になると数単位しか取れずに中退してしまった。感覚のハードルが下がって、それが普通になるまで、それは自分の心の筋肉を弛緩させるような感覚で、上げるよりは簡単だって知っていた。それでも、やっぱりどこか同世代のなかでは真ん中より上にいるような気がしていた。そもそも偏差値の高い大学に行って、彼女もいてとっくに童貞でもないし、底辺にいるような感じじゃなかった。でも、やっぱり今はどうなんだろう。歯を噛みしめすぎて血の味がするし、ヒステリックを起こした女に慣れたし、感情的になると暴力の衝動は止まらない。人間としてダメな次元にまで来てしまっているのだろうけど、それでもまだ、人間のなかじゃマシなほうだと思う。ギャンブルも酒もやらないし、借金とかは特にない。乗り越えるべきタスクはたくさんあるが、大体、どんな人間も治療しなければいけない病気や悩み事、解決する目途の経たない宿題を抱えているのだから、こんなのはどうってことない。

 そんなことを考えているとだんだん冷静になってきたので、女に謝って、煙草を吸いに外にでた。なぜか小学生だった自分を思い出す。一人ぼっちの自分は立ったまま玄関ですすり泣いていた。どこで間違ったのか、自分も泣きそうになった。しばらく考えて、どこから間違ったのか考えたけれど、それがわかったところでもうどうにもならないのだと思った。家の前を通る、誰一人乗っていない貨物列車のスピードは普通の電車より早く感じた。部屋着では夜の寒さに耐えがたい、そろそろ家に入ろう。

先天的ずぼら

 丁寧な暮らしができている友達は、いつもドライヤーのコンセントを抜いている。毎朝髪をセットして昼に歯磨きをして夜にはスキンケアをする。休日は床を掃除してシャツにアイロンをかけて布団を天日に晒す。

 昨日は彼と駅のほうに出向いて遊んだけれど、トイレから出てくるときにハンカチで手を拭いてきた。家の引き出しの肥やしとなっているハンカチのストックのことを思い出しながら、私はスカートの裾に手を擦った。グラスについた水滴をお絞りでふき取ってはきれいに折りたたみ机の端っこに置く。彼の一挙手一投足に尊敬の念を覚えるけれど、彼と自分には埋まることの無い先天的な差があるように感じた。一般人とヴィーガン、営業マンとエンジニア、トカゲとイモリ、川崎と蒲田、羽田空港と成田空港、同一になることのない2種の組み合わせに私たちは当てはまる気がした。

 人間として全うなのは確かに彼なのだが、お行儀のよい人間はどの時代にも全うなのだろうか。浮気をしてたくさんの遺伝子を残していたかつての人間はきっと優秀だったのに、いまじゃ非難の的なわけで、きっと私のようにずぼらな人間が評価された時代もあったのではないかと思う。私のようなずぼらな遺伝子はこの時代まで受け継がれているわけで、きっと生存に都合がよいことがあったんだろうし…。いつかどこかの偉い大学教授がこの形質を持った遺伝子のフラグメントを見つけてくれて、ZBR1遺伝子とか名前を付けてくれるかもしれないし、もろもろを考えるとやっぱり光栄だったんじゃないかと思ったりもする。

 そんな適当なことを思っていると一日が終わっているので、今日も水垢で瞬時に曇る鑑を見ながらクレンジングを塗りたくる。

おいしいごはんが

 人生が真っ暗な気がしていた2022年の上半期で、なんとなく生きていける気がしていた7月と8月で、いやでもやっぱり気分は悪い気がして9月を迎えようとしながら、かなり久しぶりな気もしますが、ここ最近は文章を書こうとも読もうとも思えず、何かを考えようとも思えませんし温度感が高いものを目に入れてはやはり自分にはそういった大きなモノは向いていないし、かといって自分が昔熱を入れていたそれが視界に入ってはなにか間違えているような気がしているのです。

 やはり何か目指していたり熱を入れているときには見栄やプライドだったり、誰かと一緒にやっている連帯感が私を付きまとっていたので、まあそれはそれでどうにでもなりましたし、でもやっぱり今の自分じゃワンルームに投げられた座椅子に座りながらZOZOTOWNを見ていたら1日過ぎていて、何にもこだわらない自由な生活というのが何にも左右されず、きっとそれが人間一番いいのか、とも思うんですが、ああ、そうですね、それでもかつての邪念が私を邪魔するので、今日は勉強を少しして寝ようと思います。

シュノーケリング

 「まあ、こんな仕事成功しようがやらかそうがどうでもいいというか、というよりも、俺にできることはもうすでにやっているわけで、逆にできないことはやっていないから、じゃあ後の結果を作用するのは、俺の内側にはないのだから…。そう、だから、仕事に限らず悲しいことはいくらでもあるかもしれないけど、いつまでも尾を引くようなことなんて人生にあるのか?」

 坂本は同期から嫌われている。露骨に嫌われている。仕事の最中はもちろん、休憩中も勤務時間外も嫌われている。それでも坂本はしつこく相手を誘うから、干そうと思ってもなかなか干せない。そして今私は坂本に捕まったところだった。

 このホテルはキーレスで、6桁のパスコードを打ち込んで入室するタイプだった。ホテル生活も4日目に突入するとパスコードを空で打ち込めるようになっていて、ああ、そんなことがきっかけでこの男を部屋にいれるとは思わなかったし、ここまで面倒な話をされるとも思わなかった。

 傷心に傷心が重なって、どんな音楽を聴いても映画を観ても、さて、なにか彼女のことを思い出してしまい、もう永遠に手の内にいることはないのだろうと思うと、過去に戻ってなにか選択をやり直したくて、どうしようもないことに打ちひしがれて泣いてしまうのだから、やはり何も考えないように味覚・嗅覚・聴覚…に刺激を与えてしまいたいのだけれど、それでも私の中の何かが記憶を引き出して私の眼前まで押し付けてくる。じゃあやはりどうしようもないのかもしれない。

 「そう、じゃあ、君は諦めているということかな。君の人生で本当に欲しいものが目の前に現れたとして、君はそれを指をくわえてみているのかい。そのあと、別の誰かがそれを奪い取っていったとして、君は悔しくない、どうしようもないことだったと割り切れると、そういっているのか?」

 自分の煙草の匂いは許せるのに、他人の煙草の匂いが許せない。会社に喫煙室を取ってもらって、やっぱりそう思った。もう4日目にもなるのだから、きっと今染みついている匂いの何割かは自分の匂いなのだろうとも思うのだが、やはりそれに不快に思わずにはいられない。彼をソファに誘導するやいなや、清掃で取り換えられたぴかぴかの灰皿を引っ張り、煙草に火をつけ始めた。一緒に喫煙すると妙に仲がよさそうに見えるから、私は今朝購入したミネラルウォーターをバッグから取り出し、一口飲んでテーブルに置いた。

 彼女と別れたのは先月のことだった。いや、もう7月なのだから、さらに先々月のことだ。別れてしまった。これ以上にないくらいに好きだったのに、いや、いまでも。振られてしまった。正直言って自分に責任がない。これは両者の共通見解で、でも、だからこそ今の今まで引きずっているのかもしれない。

「本当に欲しいもの…なんて軽く言うようだけれど、お前の言う本当に欲しいものというのは、果たして”本当に欲しいもの”なのか?正直なところ、世間でほしいと思われているものは俺にとって、過剰なんだ。バルミューダのオーブントースターも、外出中に起動できるエアコンも、ベンツのゲレンデも、オートロック付きのセキュリティも、そんなものが本当に欲しいもの、もっと言えば、必要なものなのか?いや、話がそれてきているかもしれない。お前のいう欲しいものは、身の丈にあっていたのかと聞いているんだ。お前にとってその女は喉から手が出るほど欲しかった女なのかもしれないが、女にとってはどうだったんだ?ものならまだしも、人を所有するという考え、それってどうなんだ?」

 iPhoneの充電が少なかったことを思い出して、テーブルから飛び出ている充電ケーブルを掴もうとしたがやめた。彼が2本目の煙草に火をつけようとして、いよいよ私も吸いたくなり、胸ポケットから取り出して煙草を吸い始めた。彼のマッチがテーブルに投げられていたので、それを擦って火をつけると、やけに吸い始めが旨く感じられた。部屋は清掃が行き届いていて綺麗に見えるが、さて、アルバイトがそう丹念に仕事をするわけでもあるまい、と思い手癖でシーツの裏を確認すると、やはりマットレスはある程度汚かった。汗染みの黄色が点々と、やけに目立つ。

 私と付き合っている間に好きな男ができるというのはいったいどういうことだろう。彼女とは私の家で会うことが多かった。その時も、その男のことを考えていたのか。二人で作ったご飯を共有しているときにも、その男のことを考えている時間があったのだろうか。幸い私と付き合っている間には体の関係も何もなかったそうだが、じゃあ、なんだって私を捨てて彼を渇望するエネルギーが生まれたのだろう。

「身の丈に合っている…?うるさいな。君、すかしてんなよ。身の丈にあっているか合っていないか、それが手に入りうるのか無理なのか、そんなことに関係なく、私の本能が根源的に欲しているんだ。脳みそであれこれ考える前に、飯を食う前に、着替えをすます最中でさえそれにとらわれる感覚がきっとお前には欠如している。一人の人間に頭を支配される。そのことしか考えられなくなって何も手につかない。これを治めるのは、そいつと一緒にいることしかないってことは、何も理屈をこねて考えることじゃない。私の本能がそう言っているし、それは人間の汚い部分とは切り離されているんだよ。」

 愛と性欲は、やはり切り離されて考えられなければいけないと、10代の時に気が付いた。愛の定義さえ知らないが、定義をしらなくても精製はできた。気に入った相手に対して、性欲の関わる要素を気化させて、その残留物こそが愛だった。そして、彼女にはその資質が十分に備わっていて、私とも気があうと思っていたのに、どうしてだろう。

「そうか。まあ、いいんだ別に。自分と同じ人ばかりでないという内容の話は別れの挨拶と併せて何万回と耳にぶち込まれたんだ。でもね、俺は異物をわからないから触りに行きたいんだ。都合のいいように本能とか言いやがる。その本能だとか価値観ってやつは、一週間インドにいくだけで、睡眠の時間を変えるだけで、接種する栄養素の割合を少し変えるだけで変わってしまう代物なのに、それを最後の盾として論じてくるメンタルには本当に参るね。」

 硬水のミネラルウォーターは正直言って口に合わないから、なかなか減らない。軟水だと一気に飲んでしまうから、そうすると硬水のほうが都合がいい。海外製の丸みを帯びたペットボトルのデザインに、大粒の水滴がぎしぎしと張り付いている。今日は湿度も高く気温も高い。エアコンをつけていなければ確かにこう結露するものだが、いったいどこから、これほどの水が眼に見えるほど集まってくるのだろう。水滴をフェイスタオルでふき取り、ボトルを手に取る。それでもなお水滴がしたたりスラックスの上に落ちた。一段階濃い黒が布を彩って、テーブルには水の輪っかができている。それらを綺麗にふき取っても、やはりふき取れている気がしない。

 人生は思い通りにいかない。負け組の言うことだと思っていた。でも、人間が相手である以上、イレギュラーが発生するほうが自然だった。そう思えるのに、なぜ私は考えても意味のないことを考えて頭を悩ませているのだろう。最近気が付いた。私は自分の頭を悩ませたいがために、なにか不都合なことを考えているきがする。

 「わかった。わかったよ。じゃあ、お前は諦観して生きているから、俺のように執着が激しい人間の気持ちがわからないってことだよ。もちろん、私の言う本能というものの正体は私の腑抜けた理性かもしれないし、怠惰かもしれない。たまたま飲み会にいた女とするライトなセックスも、私に気があるとわかっている女とするインスタントなセックスも、たしかに本能に似た理性によって動いているよ。でもね、私はひどくこれを気に入っているんだ。それが、私にはもうどうしようもないんだ。お前の諦観はもしかしたら正しい生き方なのかもしれないけれど、私にはどうしようもないんだ。」

 どうしようもないことをどうしようもないと気づけるのは、私が何歳になったときなのだろう。40なのか、50なのか…。おとなしい老人は、ああ見えて果てしない自問を繰り返しているのだろうか。永遠に私はおろかなのだろうか。彼女に会いたくてしょうがない。こんな生き方、馬鹿みたいだし、女みたいだ。でも、これが私の過失だとしても、やめられないことをやめられないのは、悪なのだろうか?

 彼が半分くらい残っている煙草をねじ消した。

 「俺が諦観に徹した反物質主義者みたいに見えているのかもしれないが、別に俺はそうじゃないし、なんだ。執着と諦観は、決して反対では無いし、混ざり合っていてもいいわけで、現にお前は極端かもしれないがそうやって生きているじゃないか。どいつもこいつも、諦観するべきことに執着を忘れられず、諦観するべきことに執着を忘れられない。そうやって生きることが、もがいて生きていられるということなのかもしれない。そう、俺はね、もう生きている理由さえもわからなくなってしまっているから、きっとお前の生き方は悪くないんだと思う。」

 「そう、お前と私は異なる人間なようだけど、やはり行き詰まる先は一緒なのかもしれない。頑張ってほしいとはいえないのだが、まあ、心地よく過ごしてほしいから、今日はもう自室に帰ってくれ。」

 空調の音しか聞こえない自室。考えても、言葉を発しても壁を跳ね返って並べて自分に跳ね返ってくると、痛みを通り越して虚しさを感じる。今日は19時から同僚と飲みに行く。息詰まる前に、シュノーケルみたいに水面下で息をする。それがやはり、生きているということなのかもしれない。

本を読むわけ

  趣味は?と聞かれたら、とりあえず読書と答えることにはしています。相手は大抵読書をしないので、次の会話に遷移するか、浅めの深堀、いま名付けるなら、浅堀が始まります。

 「俺全然読書しないんだけどさ~~~、なんかおすすめとかある???」

 この質問、人生で50回くらいは喰らった気がします。こういう人の要望に応える答えは、本屋行って平積みされている本を読むか、本屋大賞を取った本を読むか、東野圭吾伊坂幸太郎読む、に尽きるのです。しかしながらこれらの答えを伝えると彼らは満足していなさそうな顔になります。

 「いや、そういうメインストリームって感じでもいいんだけど、お前が読んで、知る人ぞ知るっていう感じのを聞きたいっていうか。」

 「文字ってあんまり読んでいられないから、ずっと集中しちゃうくらい面白いやつがいいんだけど」

 と続いたりするわけですが、本屋大賞取った作品なんて僕が読んでも誰が読んでも面白いに決まっているのでさっさと読めばいいと思うんですよ。それでもなお文字を目で追っていられないのであればきっと読書をしようという気概があなたの中に一切ないんですよ。

 いや、しかし、そんなことで私がキレているのもおかしな話で。そもそも私が本屋大賞のこの本面白かったよと勧めれば相手が読む読まないに限らず話は丸く収まるわけで、というかそもそも読書とかいう絶妙に話の広がらなさそうな趣味を持ってくる時点でお前にキレる資格はないぞと。私が悪いんですよこれ。

 でもね、別に本屋大賞の作品を意識的に読んだことも無ければ、そもそも面白くねえよって言われるような本も読んでいて、それでいてこれを超えるような趣味っていうとほんとにニッチな話広がらないなんて次元じゃない趣味しかないんです。

 

 私が苛立つのは私と彼らとでは小説を読む目的が違うからです。小説を読む目的って何でしょう。

①読書をすることで賢くなりたい(イメージ、語彙力)

②読書を通じて人生の深いテーマについて考えたい

③人生では経験しきれない他人の人生に触れて疑似体験をしたい

④映画やドラマ、漫画といったようなストーリーを楽しみたい

 ④に関して言えば、じゃあなんで映画やドラマ、漫画を楽しむのか、というところで結局目的に繋がりそうなところではありますが、私が今ざっと考えた想定できる目的はこんなところです。

 普段読書をしない人が考える目的は①,④あたりにあると思ってます。読書をすることで賢くなるというのはそこそこ暴論で、それこそ1冊を1度読んだからと言って短期的に頭が良くなるというのは考えにくいと思っています。じゃあ長期的には頭が良くなるのか、と言われるとまた微妙で、確かに語彙力なんかは身につくかもしれませんが、身についた語彙力を使うかどうかといわれると、文語体でしか使用されない語彙、口語体であろうと通じるコミュニティにいるかどうか、みたいな要因に阻まれて結局大して頭なんてよくならないんじゃないかなと思います。ストーリーを楽しむなら、読書ってかなり時間対感動のコストパフォーマンスが悪いので、これもやっぱり読まない人の目的に該当する気がします。例外はあります。

 ②なんかは、私の苦手とするタイプの人間ですが、割とこういう目的で読書する方は多いんじゃないかなと思います。ただし、読書をできない人の目的が②であるケースもそれなりに多いと思っていて、小説すべてが人生において重要なテーマを孕んでいるとは言えないと思うからです。そういう人は小説じゃなくて哲学書とかのほうが性に合うと思うし、小説特有のストーリーというものをいちいち哲学概念的なものに昇華させる必要があり、読まなくなるのかなと思います。私は高校生のころなんかは小説の背後にある隠された重要なテーマのほうに頭が働きすぎて純粋に小説を読むことを楽しめなかった気がします。

 ③は、割と私はこれに近い気がします。私はこの先の人生で結婚できるかもわかりませんし、その後不倫するかもわかりませんし、クリエイティブな仕事ができるかもわかりませんし、道端で銃を拾う事なんてないでしょうし、暴力的な父親を持っているわけでもないですし、そもそも女性に性を変えることもそこそこハードルが高いでしょうし、そういった意味で言えば人生の疑似体験ができるというのはなるほど確かに小説を読む意義ではあるのかもしれません。特に小説ではビジュアルで訴えかけてくる登場人物の特徴というものは基本的にないので、よほど共感できない限りは主人公の思いに共感できることはままあります。ですが、正確に言えば私はこの目的で小説を読んでいませんし、このように人生の疑似体験として使うツールとして小説を楽しむのはなんとなく嫌だなと思います。もしも小説を疑似体験として使うのであれば、小説に書いてあることは全くのフィクション、不可能な事象であり、空想の世界を楽しむためのキットであるわけです。それは私の好きな小説の性質と少し異なります。もちろん、そういうものも有って然るべきなのかもしれません。

 私が本を読むのは、他者を理解したいから、だと思います。だと思います、というのは、正直なところ私がなぜ本を読んでいるのかよくわからないのです。この1年くらい小説を読む生活をしていました。最初は暇つぶしで、でもだんだん、別に暇じゃないのにわざわざ時間を作ってまで小説を読むようになった理由を、私は明確に説明することができないまま今を迎えています。そこで、ちょっとだけ理由を考えたのが他者理解ということです。

 他者を理解するにはそこそこ時間がいると思います。特に私は人と話すのが得意でもなければ距離を詰めるのも下手なので、現実で深く仲良くなる人っていうのは1年に一人いるかいないかとかそんな程度だと思っています。小説の人物と仲良くなることはありませんが、そこにはいろいろ書かれています。失敗する人も、成功する人も、強者も、弱者も、自分に似た人も、全く似ていない人も描かれています。私はそれらの人を自分に憑依させるのではなく、彼らを咀嚼し飲み込み、愉悦を感じています。そして、それは文章だからできることだとも思っています。映像や絵は私にとって、飲み込むことができないと思います。絵を見るとき、いかにして脳に反芻させますか、映像を見るとき、いかにして脳に反芻させますか。網膜を通じて脳に入ってきた映像は、鮮明に残りはせず次の瞬間には形、色使いさえも忘れてしまいます。しかし、文章はすくなくとも次の一瞬までは追うことができるし、フレーズ程度であれば脳みそにストックしておくことができます。また、文章は必ず読む必要があります。読み、理解せねば次に進めない。大きな食べ物を口に含んで、噛まずに食道を通りますでしょうか。

 もちろんストーリーが面白いなとも思ったりするのですが、正直私はストーリー展開とかあんまり気にしません。ありきたりでなければなんでもいいと思っているし、咀嚼し理解する要素にあふれていればあふれているほど面白いとも思います。これは①~④と重複して持つ目的である可能性はありますが、独立していると思っています。

 そう、だから、そんな楽しみ方をしているので、別に本屋大賞の本を読もうとも思わないわけですが、きっと読書をしようと思っている人は私のような目的意識をもって読書をしないと思うのです。だから、おすすめなんて聞かれても困ります。さらに言えば、別にこの目的意識は持とうと思って意識的に持ったものでもないわけで、じゃあそういう風にお前がおすすめされた本を読めば、面白いと思えるんだな、とか言われても困るわけです。暇つぶしで、登場人物に興味を持って、ある時は作家に興味を持ってだらだらと読み続けた末に生まれた副産物的目的を他人に強いようと思えるほど、これが正しいかもわからないですし、本当によくわからないのです。

映画見たい

 椅子に座るとき、お尻を座面に着け、背筋を伸ばして目線を前に、肩甲骨を寄せて肩を落とし顎を引く。周りはみんなそのように見える。普通そうだと思うし、私もそうだと思っていた。卒業アルバムのために撮られた写真に写っている私は、その想像とかけ離れた姿で教室の硬い椅子に座っていた、というより、寝そべっていた。座面についているのはお尻ではなく腰、背中と言っても差し支えなく、丸まった大きい背中と前に出た首、上がった顎と曲がった首。それはとても醜く感じられたのだけれど、それは私が私を全く客観視できていないことを意味していたから、私はこれまでなにか大変なことをしでかしてきたのではないかという恐怖に背筋が凍った。

 あれから何年経ったのかよくわからないけど、もう自分に期待しないことにしている。というか、客観視なんてできないのだから、できるだけ自分を低く見積もって査定して、それで多めにおつりが来たらラッキーというか、そう、ブックオフに本を売るときに期待なんてしちゃいけないわけで。まあもともと、そんな順風満帆にほくほくと幸せを享受していい人間でもないというか、そんな気もする。

 私は本当にそんな不幸の星のもとに生まれた少年だったのだろうか。私の親は私に愛情を注いでくれたのだろうか。私は自尊心を保つのに十分なご褒美と教育を受けたのだろうか。私は絵を描くのが好きだった気もするし、身体を動かすのが好きだった気がするし、ゲームをするのが好きだった気がするし、でも、そのどれをとってもあまり褒められることはなかったはずだった。姉も例外じゃなく、そういえばあの人は子供だからと言って人を見境なくほめるようなタイプじゃない。でも、それが何だっていうんだ。

 しかしながら、私にいま子供という存在がいようものなら、私は無下に彼を誉めることはない。大人と対等に扱うのだろうし、それは評価という点でも揺るがない。私の持てなかった、磨けなかった才能というものをお前に開花されてどうしようか。あの人もきっとそうだったのかもしれない。

 まあそれにしても、私は硬いスツールにしか座ったことがない気がする。小学生の時はオーソドックスな勉強机にあこがれていた。組み合わせデスク、だとか、鍵のついた引き出しだとか、机の上にある本棚だとか、ああ、そういう皆が共有している少しのわくわくが私には足りなかった。ランドセルも、オーソドックスなものが欲しかった。交通安全のために配布されるマスタード色のランドセルカバーは、私の特殊なランドセルに張り付けることはできなかったし、なぜ私はその楽しみを享受できなかったのだろう。

 まあでも、いいんです。やわらかい椅子は好きじゃない、というか、好きになるように育ってないから今は別に困ってない。でもね、そう、最近は次の新居に移るタイミングでふわふわのリクライニングソファを買おうと思っているんです。一緒に座る人なんていないんですけど、3人掛けの、真ん中のシートを倒して飲み物が置けて、iPhoneの充電ケーブルを挿すUSBポートがついてるやつ。これを友達に言うと、いや、どうやらこれはあまり人気商品ではないらしい。これほど私には魅力的に見えたのだけれど、本当に世の中理解できないことは多い。高齢者の購入が多いらしい。

 硬い椅子なんてつまらないでしょう。私が硬い椅子を選んだのは眠くならないし、勉強しやすいし、立ち上がりやすいし、ね、そんなのはつまらないでしょう。以前、私は映画が嫌いだという話をしたけれど、本当はそんなことないんです。ただ、身体にストレスを感じることなくディスプレイで映画を見る経験をあまり積んでなかったんじゃないか。だから、そう、さっきも言ったけど、リクライニングソファを買うんです。あとついでにいい匂いの柔軟剤も買う。私の家は無臭の柔軟剤を使ってきてそれが良いと思ってたけど、ごめんなさい、本当は友達の家のいい匂いのお洋服にあこがれていました。

ネオ人間

 自分でも驚くくらいニュートラルだと思いました。綺麗な女だなと思うのですが、やはり、目の前に立とうが横に座ろうが、性的なものを覚えない気がします。ハイボールしか飲まないと宣言されて、途中で一度カルピスサワーを頼んでいましたが、その次にはハイボールをオーダーしていました。ただ、特段ハイボールが好きそうなわけではなく、甘いお酒を頼むとなんだか俗らしいように見えるし、ビールも慣れていないからハイボール好きのレッテルを自身に貼付しているようでした。

 酔いも回ってくると、いや、酔いが回っている前からボディタッチの多い女だなと思いました。性欲の強い女なのかなと思いましたが、なにか僕を誘起させたいのかなとも思い、それに乗りたくなかったし、特に何も感じませんでした。自分がすごくニュートラルで、自然だと思いました。性の雰囲気や恋愛が決まった流れのように感じられて、それが世の中で一定の方向に向いているから、それに流されてしまうのは自然で気味が悪いと思います。でも、何か気まずいのでその日はそのまま一緒に流れることにしました。流れられないのではなく、流れないだけだから。

 人間決まったものだと思いました。こんな女であふれかえっているような気がします。個々人で多少の差異さえあれど、根本に性、それに塗りたくるセメント、セメントの上に化粧をすれば、それで完成するような気がしました。こんなことばかりでつまらないと思いました。

 ずっと無駄なことに力を入れていた気がします。怖いと思っていた世の中はこんなにも単純で、自分を満たすためには流されるだけでよかった気がします。君がどこかにいる気がしていましたが、やはりどこにもおらず、いるのは僕と他のみだったのです。