モリブロ

ここ最近はよく悩んでいる。

2.九段理江『School girl』

 

①『School girl』を読む

 第166回芥川賞候補作が発表され、皆様好きなように候補作を読んでおられたと思いますが、私は受賞作が発表されるまで一つも読めていませんでした。何しろ、1月はとても忙しい月でして…、といいつつも、booklogによれば15冊程度は読んでいるらしく、これなら候補作を読むこともできたじゃないか…。

 読めないならと、Youtubeでそれぞれの作品についての感想を述べている動画をちょこちょこ見ていましたが、九段理江さんの『School girl』が気になって、受賞作そっちのけで読みたいという思いを膨らませていました。思いは膨らんでいたんですよ。

 それでも1月中は読めなかった。なにが億劫だったって、本作を読む前に『女生徒』を読んだほうがいいにおいがプンプンすることです。題字は明らかにパロディであり、引用などもされていることを事前情報として知っていました。でも、ちょっと2冊のつながりとして読むのは明らかに筋道通り過ぎるし、なにより、角川文庫の『女生徒』の装丁が私にはしっくりこなかったので、もうこっちから読んでしまおうということで今回読ませていただきました。

 ついに今日、読めたわけですけども、この作品、短いですね。いえ、私は短い作品のほうが集中して読めるので、どちらかといえば唸る程度にはありがたいのですが、ただ、賞レースと考えると物足りない長さなのかも、という感想を抱かずにはいられませんでした。

 

②適度にあらすじと適当な感想

 この作品は、母と娘の関係を描いた作品です。適度にあらすじを言います。ちょっと、うまく説明できなかったかもしれませんので、買って読んでください。

 14歳の娘は、地球温暖化・animal rights・ヘアドネーションなど、細かいところまで気を配り、世界にとって良いものであろうとし、それに気づいていない人々に向けてYoutubeで発信さえしています。母親のことを気づいていない人間どころか、見て見ぬふりをする、負の遺産を残した上の世代、として見ています。フィクションなんてもってのほか、現実に目を向けることを第一なわけです。こうやって書くと、意識が高くて嫌な奴ですが、やっぱりこれは思春期特有の世に対する反発でもあるのです。

 物語の転機になるのは、母が昔読んでいた太宰治著『女生徒』を娘が読むところからです。これまで現実主義で、世の中にとって”良い”ものばかりを語っていた娘は『女生徒』についての話をし始めると一変します。本作の終盤、彼女はYoutubeに公開した動画上で以下のような言葉を残しています。

私は、口では功利主義だの利他主義だのと綺麗ごとを言っているけれども、本当の心の奥底では、お母さん以外の赤の他人のことなんて、どうでもいいのかもしれない。

 所謂世界の”善”を語ってきた彼女が、ここまで赤裸々に語るのか…。と多少困惑さえしますが、まあ、そういうことなのでしょう。なんなら中盤からは、お母さん、お母さんの連続でもあります。やはり、14歳というのは怒涛の歳です。

 一方母は、娘を育てるということに注力した人間であるので、このように娘が賢く育ってくれたことを誇りに思う一方で、娘がYoutubeに公開した動画に神経をとがらせ、死にたくなったりもします。動画や娘のグレタライクなところから娘を思う母ですが、カウンセリングで14歳に戻った気持ちで、娘のことを思ってみろと助言をいただきます。初めこそそんなこと、と嘲るわけですが、不倫相手との浮気で急に14歳少女を憑依させます。

みんなを愛したい。無秩序な思考から余分なものが取り払われ、シンプルな欲求がひとつ残っている。(中略)美しくいきたい。

美しくいきたいと思います。と似たような表現で、太宰治の『女生徒』から引用されます。

 作品の終盤では、世界を襲う悲劇(結局なにかはわからない)がメディアのトレンドになっていることを無視して、母と娘が小説『女生徒』を通じてコミュニケーションを取ります。

 

③感想と解釈

3.1.AIと母、母と娘

 私(母)の取り巻く環境はAIやら、タクシーやら、UberEatsやら、ネオ令和人間、という感じですね。私の日常生活には特に”AI”が節々に関わってきます。朝起きた時のニュースだとか、家を出る前の忘れ物だとか、帰ってきたときの労いだとか…。でもそれって、私にとってはめちゃくちゃどうでもいいことなんですよね。心に染みてこないっていうか。

 寿司の出前、外食の手配、娘が家に帰ってくるときの私の対応はどこかAI然としているように感じ読んでいました。私は娘に全力投球です。ですがここは医者の言う通り、少し理論武装気味で、理屈ばっていて、自分が正しいと信じてやまない娘と同じだったのかなと思います。娘もやっぱりそんな対応じゃ、からっぽを感じていたのかなと思います。その後、私が自己肯定モードに切り替えて大人げないまでに娘に語ったことで、娘と母との最期のやり取りが完成します。

 

3.2『女生徒』と本作

 さて、本作は母と娘の間にある愛(?)、愛というと大げさな気がしますが、間柄、くらいを描いているのですが、『女生徒』に対して、”小説”に対しての愛も語られているなあと思います。こうなるとやはり、『女生徒』を読んでおけばよかったと多少の後悔の念は捨てきれないのですが、いや、別に青空文庫でも読めるんですけど、すみません。本作から察するに、『女生徒』は太宰のファンが送ってきた手紙をもとに書いた小説で、異常ともいえる読点の量、多数出現する”お母さん”、まあ、そんな小説なのでしょう。

 でまあ、『女生徒』と『School girl』が1対1に対応しているのかというと、そういうわけではないと思うのですけれど。本作には、『女生徒』を通じた読書の在り方というのを少し意識させられました。

でも、この本を読んでいると、小刻みにブレーキをかけて走る車に乗っているみたいに言葉が止まって、これがなんか癖になる。私とはべつの思考回路を持った女の子が、頭の中に入り込んできて、私を乗っ取っていく感じがする。彼女が「泣きたくなる」と言うと、私まで本当に泣きたくなってくるんだから不思議。

 上の引用は娘が動画で語った言葉ですが、いや、小説が嫌いで、『女生徒』はギリドキュメンタリとして捉えられるから小説ではない、とか言ってるやつの感受性じゃないですよね。こうやって娘の矛盾を突くことは、本質的ではないし、矛盾があることくらい娘も理解していると思うので、あまり言わないのですが、それにしても、小説を楽しむ性質を十分に持ち合わせている、というより、こうやって読めるんだよ、と教えられている気分にすらなる。

私は、この意識を持った私は、その誰かによって書かれる文章の、登場人物なんだというふうに。私の心とか、体とか、そういうものは全部その人によって、書かれていくんだと。

 もはやメタ的な様相を呈していますが、文学ってきっと、そういうものなんじゃないでしょうか。本作の娘が序盤で言ったように、小説ってやっぱり嘘もたくさんあると思います。希望のために消費される物語があり、涙を流すために殺されるヒロインがあり、…。そういう典型的なことを言い出せばきりがないのですが、小説に描かれる人物って、グラデーションがあって、一辺倒ではないです。これだけたくさんの人が様々な人について書いているのですから、それは絶対そうです。

 小説で描かれる人は、現実で言うところのどこかにいる誰かなのだろうし、かといって私に全く共通しない人物ではない。そうして、私の弱いところや、情けないところや、ずるいところを書き、寄り添ってくれるのは、やはり小説であり文学なんじゃないかなと改めて思います。そうなると、冒頭の母の友達っていうのは、文学的ななにかだったりするのかな、とも少し思います。本当にイマジナリなフレンドなのかもしれませんが。

 

④最後に

 結構いろいろ書けましたが、まだ書き足りないようなそんなきが延々とします。娘に対する私の意見も、書きたかったのですが、いいです、なんかちょっと強引な気もします。単行本のページ数にして、実に80ページとちょっとなので、読みやすくもあるのですが、その分考えを膨らませて補強しなければいけないような気もして、難しいと思いました。

 きっと、読む人が違えばまた感想がガラッと違う作品なのだろうなとも思います。実は私は、親と子がそこまで親しくなる必要も、無理にわかり合う必要もないと思うので、でもって別にそういう作品ではないのですが、そういう風に頭を固くして読めば、私はこの本を拒絶していたかもしれません。

 これを書評としてやっているつもりはないのですが(ごりごりの書評タグつけてますが…)、書いてて思うのは、書評を仕事としてする方はやっぱりすごい。私は、この本をほめることはできても、けなすことにまだ抵抗があります。本を星いくつで評価する軽率さも、言葉でけなす度量も持ち合わせていません。同時に、ほめることも私には少し難しいと感じます。

 でもまあ、そんななかで多少の俗的な評価をさせてもらうのであれば、私は好きな作品でしたが、今一つ物足りなさも感じたような気がします。分量なのか、テーマなのか、あと一味ほしいというこの感覚をどうにか言葉にしたいのですが、それにはもっとたくさんの作品に触れる必要があると思います。

 収録されている『悪い音楽』のほうは読めていないので、読んだ後に、本棚に入れてまた今度読もうかなと思います。ブログに書こうと思って、かなり真剣に読んでいるので1回1回の読書は疲れますが、こうしてまとめられるならなかなかいいです。味があるみたいに、いいことです。

*追記

 作品をまとめたところで、豊崎由美さんの第166回文学賞メッタ斬り!SPを拝聴してきました。やはり、素晴らしく的確に作品をまとめていらっしゃるなと感じます。

 特に、不自由なく暮らしながらも、死にたくなる欲望を持っている母親と、不自由さに目を向けて世界をよくしようという娘の交わらなさが『女生徒』を通じてすこし交わりを見せる。という旨の要約が、ああ、なんとも、なぜ私は一言そう添えなかったのだろうと、後悔に似た感情があらわれてきます。

 ただ、全く交わらない二人なのかと言われると、そういうわけでもなくて、やはりすべてを愛したい、美しく生きたいという部分では、やはり両者が交わる部分で、そこが『女生徒』を通じて浮き彫りになったのだと解釈しています。

 太宰治の文体を通じた考察も的確で、やはり作品を深く読むうえでの血肉というのは蓄えられていくものなのだと実感しました。

 本記事でつづった読書に対する姿勢、というのは長く語られてきて、陳腐化しているものでさえあると思っています。ただ、それが私の心に強く響き、つづらせるにいたったのは、私の未熟さゆえのものなのでしょう。読書を初めて5か月が経とうとしています。まだ死なずに済んでいるのは小説のおかげ、というのは言い過ぎですが、生き延びる糧はあちこちにちりばめられていて、私はこれを糧に生き延びているような気がしてならない。